セルバンテスの短編『びいどろ学士』

 セルバンテスは、『ドン・キホーテ』第Ⅱ篇発表の2年前、すなわち彼の死の3年前に、12篇の『模範小説集』を発表しています。これらの短編だけでも、作者をスペインの第一級の名文家に列するに足るものと言えるでしょう。彼はこの短編集の序文で、「私はカスティーリャ語で最初に小説を書いた人物だ。それまでカスティーリャ語で書かれた多くの小説はすべて外国語からの翻訳だ。しかしこれらは模倣でも、盗作でもない私自身の作品だ。私の才がそれらを生み、私の筆がそれらを作りだしたのである。」と高らかに宣言しています。そこでこの「模範小説集」のなかのいくつかの作品もここで取り上げてみたいと思います。

 先ずは『びいどろ学士』です。すなわち、「ガラスの学士」です。主人公のビイドロ学士は読書を好む知性派で、武器を忌避する若者ですが、いったん狂人と化し、その後正気を取り戻してからは武器を取らざるを得なくなるという当時のスペインの社会と風習を揶揄しており、悪者小説『ラサリーリョ・デ・トルメスの生涯』と似たところがあります。この作品の主人公もドン・キホーテと同じく兵士として戦ったセルバンテス自身の一面を表していると思われます。

 粗筋は以下のとおりです。

 二人の学生紳士がトルメス川の畔を散歩していると、農夫の服装で、木陰で昼寝をしている少年に出会います。紳士学生に同伴するお付きが彼を起こし、どこの誰かと尋ねると、名はトマス・ロダハで11才、サラマンカで仕事をしながら勉学に勤しみたく、そのために主人を探している、将来は両親と故郷のために尽くしたい、司教も人であると聞く、すでに読み書きはできる、とのこと。これを聞いた二人は感心し、喜んで彼を受け入れることにします。さらにその後、彼の忠誠心と働きぶりを見て、彼を召使ではなく、仲間として扱うことにし、トマスは大学でもその才能を認められます。

 学業を終えた学生紳士たちは故郷のマラガに帰り、トマスも同行しますが、暫くして彼はサラマンカに戻ることを希望し、認められます。道中、歩兵隊のバルディビア隊長と遭遇、隊長の誘いに応じ、イタリア・フランドルに同行します。

 イタリアから戻ったトマスはサラマンカで法学を修め、卒業。しかし、ある女性が彼に惚れこみ言いよりますが、学業に打ち込むばかりで自分の方を振り向こうともしない彼に業を煮やします。そこでモーロ人に頼み、ある種のマルメロを食べさせると手足が痺れ、気を失うという魔術を掛けてもらいます。トマスが何日かして目を覚ますと、自分の体はすべてガラスでできているという錯覚に陥っていました。彼はどんな難しい質問にも答えられるが、決して自分には近寄らないように、と周りの人に注意します。そしてトマス・ロダハは「びいどろ学士」と呼ばれ、毎日街を歩き廻り、すべての質問に見事に答え、冬の夜はわら小屋で眠り、夏の夜は野外で眠ります。

 2年後、ある聖職者が彼を治療します。そして彼はルエダ学士と呼ばれますが、正気を取り戻した彼に近づく者はなく、食べるに困った彼はフランドルに戻り、バルディビア隊長のもとで兵士になります。そして学問で名を残すかと思われた彼は「賢明で勇敢な兵士」としての名を残してこの世を去ります。

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