翁草

マリア・コダマ女史からのメール

旧知のマリア・コダマ女史(日系二世)から先日以下のメールが届きました。 この方はアルゼンチンの文豪ホルヘ・ルイス・ボルヘスの未亡人で、作家の没後「ホルヘ・ルイス・ボルヘス国際財団」を立ち上げ、世界に向けてのボルヘスの紹介やアルゼンチン における俳句の普及などを行っておられます。同メールを皆さんと共有したいと思います。


     
ホルヘ・ルイス・ボルヘス国際財団 理事長 マリア・コダマ女史の寄稿文 (日本語訳)

伊藤さん:

コロナ禍のただ中にあるブエノスアイレスからお便りしています。今や当地でも皆マスクをつけていますが、私はこれを barbijo (動物の口輪)と呼んでいます。

 ホルヘ・ルイス・ボルヘス国際財団は、その後もコロナウイルスにもめげず、活動を続けています。

 まず財団では日本大使館とオラシオ・マルコ氏の献身的な支援を得て、日本映画も上映しており、日本映画のファンが増えています。

 また、フェルナンド・フローレス副理事長が中心となって財団による俳句コンクールも続けています。それに加えて新しい試みもあります。コロナ禍が落ち着きしだい、従来の青少年向け俳句コンクールを継続するだけではなく、ネットを通じてボルヘスの作品の読み方を教える講習会を開くことになっています。そこではボルヘスが日本に対して抱いていた親愛の情も示されるのはもちろんのこと、著名な評論家や作家の参加も予定しています。この講習会にはすでに400名以上の参加申し込みがありました。

 また、フェルナンド・フローレス氏の発案により、ボルヘスの『幻獣辞典』をイラスト付きで読めるようにしました。SNSで見ることができますのでどうぞご覧下さい。

 なお中国から、俳句コンクールに参加したアルゼンチンの青少年の俳句を中国語に訳したいとの話が舞い込んでいます。自分としてはできればそれを日本語に訳し、日本の新聞なり雑誌の文学欄に発表できれば面白いのではないかと思っています。

あなたの日本の古典の翻訳は素晴らしいお仕事で、心からお祝い申し上げたいと思います。

                                     マリア・コダマ

機中で見たスペイン映画

3月中頃、スペインでもコロナウイルスが猛威を振るい始めたため、マドリード・成田直行便(イベリア・JAL共同運航)で急遽帰国しました。不幸中の幸いは機内で3本のスペイン映画を楽しめたことでした。

1本目はスペインの名匠ペドロ・アルモドバル監督・脚本、アントニオ・バンデラス主演による”Dolor y gloria”。 アルモドバルの自伝的要素を織り交ぜつつ描いた人間ドラマ。世界的な映画監督サルバドールは、脊椎の痛みから生きがいを見いだせなくなり、心身ともに疲れ果てていた。引退同然の生活を送る彼は、幼少時代と母親、その頃に移り住んだバレンシアの村での出来事、マドリッドでの恋と破局など、自身の過去を回想するように。そんな彼のもとに、32年前に手がけた作品の上映依頼が届く。思わぬ再会が、心を閉ざしていたサルバドールを過去へと翻らせていく。幼少時の母親役のペネロペ・クルスが美しい。

2本目は ”Vivir dos veces” という題名のコメディ。 アルツハイマーと診断されたもと数学者の老人が、孫とともに初恋の彼女を捜す旅に出る。途中から娘、娘婿も加わり、ばらばらだった家族の絆が深まる。記憶が消えてしまう前に、変わらぬ愛を伝えるためだったのだが、やっと見つけた彼女は、、、

3本目は ”Mientras dure la guerra”。1936年後半のサラマンカが舞台。スペイン内戦中のウナムノ(哲学者・サラマンカ大学学長)を主人公にしたもので、第二共和国から国を救うためには軍事クーデターも已むなしとこれを容認する立場をとったが、結局それがフランコ独裁政権の誕生につながったことに気づき、後悔するといった内容です。

いずれの3本もそれぞれ見応えがあり、その感慨に耽っていると、「間もなく成田空港到着です」の機内アナウンスが聞こえてきました。

バルガス・リョサの最新作 Tiempos recios(「激動の時代」)
バルガス・リョサ Tiempos recios

 新型コロナウィルスのお陰ですべての約束がキャンセルされたのをこれ幸いとバルガス・リョサの最新作 Tiempos recios(「激動の時代」)を読みました。中米のグアテマラを中心にカリブ海のドミニカ共和国などを舞台にした歴史小説です。

 グアテマラでは1950年の大統領選挙において軍人・政治家出身で国防大臣も務めたハコボ・アルベンス(1913-1971)が選出されました。アルベンスはグアテマラのこれまでの半植民地的経済を自立させ、民主的で近代的な国家に変革しようとの野望を抱いて翌年大統領に就任しました。しかしその革新的政策は、特に農地改革をめぐり米国から猛反発を受けます。米国は「グアテマラが共産化している、ソ連の橋頭保を築こうとしている」というネガティブキャンペーンを張って露骨な内政干渉を行いました。そして同改革がユナイテッド・フルーツの権益にまで及ぶと、米国の怒りは頂点に達したのです。

 1954年、米国・CIAの支援を得たカスティーリョ・アルマス大佐率いる武装勢力がクーデターを起こします。アルベンス政権は崩壊、アルベンスはメキシコへ亡命しました。この一連の動きにはドミニカ共和国の独裁者トルヒーリョも深く係わっていたようです。トルヒーリョは残酷な拷問で知られた軍情報局(SIM)のアッベス・ガルシア局長(1924-1967)を駐グアテマラ大使館に武官として派遣。当初トルヒーリョは新たに成立したグアテマラのカスティーリョ・アルマス軍事独裁政権を支援しましたが、その後徐々に両者の関係が悪化、1957年に起ったカスティーリョ・アルマス(1914-1957)暗殺事件にはトルヒーリョが関与していたとされます。その後、トルヒーリョ自身、1961年、米CIAに支援された側近によって暗殺されるのですが。

 トルヒーリョのあとを継いだバラゲール大統領は軍情報局(SIM)を解体するため、即刻アッベス・ガルシアを “地球上でもっとも遠い” とされた日本に大使館武官として派遣します。このアッベス・ガルシアもその後数奇な運命をたどることとなります。

 バラゲール大統領(1906-2002)といえば、私が駐ドミニカ共和国大使館で勤務した1973-78当時も大統領を務めており、なんどか直接お会いする機会がありました。強権政治ではありましたが米国からの援助で工業化を進め、「ドミニカの奇蹟」と呼ばれる経済成長を実現しました。握手の手は実に弱々しく、話す声も小さかったのですが、演説のときは人が変わり、その声は実に力強いものでした。晩年は白内障でほとんど視力はなかったそうですが、国会での年次教書などは朗々と読み上げ、あれはすべて記憶に頼っているのだといわれていました。とにかく沈着冷静、頭脳明晰で、謎めいた方でした。

 バルガス・リョサの Tiempos recios (「激動の時代」)を読むと、当時の米国外交の稚拙さ、強引さに改めて驚かされます。そしてキューバのフィデル・カストロを共産圏に追いやったのもむべなるかなという気がします。

サラマンカ大学での短期集中講義

 この度スペインのサラマンカ大学において「古典文学に見られる日本社会の変遷」というテーマで講義をすることとなり、3月4日に日本を出発しました。これまで奈良時代の『万葉集』、平安時代の『梁塵秘抄』、鎌倉時代の『方丈記』、『百人一首』および『歎異抄』、室町時代の『閑吟集』、江戸時代の『世間胸算用』、『芭蕉文集』および『おくのほそ道』、そして明治時代の石川啄木(『一握の砂』、『悲しき玩具』、『ローマ字日記』)をスペイン語に訳してきましたので、これらの作品を紹介しつつその時代背景や日本社会の変遷について考察しようというものでした。

フローレス・サラマンカ大学日西文化センター所長による講師紹介

 3月4日マドリード着、4日間滞在してから、新幹線でサラマンカへ入りました。大学での短期集中講義は9日から12日までの4日間(各2時間半、4回)でした。しかしその頃、スペインでのコロナウイルスの感染者数は日ごとに倍増していて、学生たちも浮足立っており、結局、講義は3回行っただけで、最終回は中止となりました。その他に同大学およびマドリードのコンプルテンセ大学でも講演をする予定でしたが、教育機関が閉鎖されいずれも中止となりました。当初はサラマンカでの講義と講演を終え次第レンタカーで地方を廻る予定でしたが、すべてキャンセルしました。幸い14日のJAL・イベリア共同運航のマドリード・成田直行便に変更ができ、これで帰ってきました。3月17日現在のスペイン全土の感染者数累計は11,178人、死亡者数は491人に上ります。ちょうどギリギリのタイミングで帰国できた気がします。しかし肝心の仕事の方は達成感が湧かず、残念さが残ります。

Salamanca の宿舎フォンセカ大司教迎賓館

 もっとも、サラマンカ大学のフォンセカ大司教迎賓館に5泊させて頂いたこと、私の「歎異抄」スペイン語訳を出版して下さったSigueme社(在サラマンカ)のエドゥアルド・アユソ代表から昼食に招かれ、いろいろと話し合えたこと、またサラマンカ大学日西文化センターのホセ・アベル・フローレス所長とも昼食を共にしながら日本とスペインの文化交流について意見交換ができたのはとても有益でした。

 さらに40年近く前にマドリードの大学寮で3食を共にしたパコ(弁護士)がバダホスから夫妻で駆けつけてくれ、「万が一飛行機が飛ばず、スペインに永く滞在しなければならなくなったら是非自分の家へ来るように」と誘ってくれたのも有難く、忘れ難いです。

 なお余談ですが、街を歩きながら印象深かったのは人々が親切だということと、歩行者がいると必ず止まるというスペイン人の運転マナーの良さです。日本も大いに学ぶべきだと思いました。

 ☘ スペイン滞在中の写真集は こちら

       パコ一家と

啄木一族の墓

昨年(2019)のクリスマス・イブに雪の函館を訪れました。津軽海峡に面した立待岬(たちまちみさき)近くに、啄木と妻をはじめ3人の愛児や両親らの眠る墓があります。

啄木が函館に住んだのは明治40年(1907)5月から9月までの短い期間でした。しかし、そこでの生活は離散していた家族を呼び寄せ、明るく楽しいものだったようです。そして「死ぬときは函館で……」と言わせたほど函館の人と風物を愛していました。

墓碑には

東海の小島の磯の白砂に
われ泣きぬれて蟹とたはむる

の一首が刻まれており、そこからこの歌の舞台とされる大森浜が一望できます。

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