翁草

「コルテス報告書簡」(カルロス一世国王あて)を全訳して 

3月27日、京都外国語大学ラテンアメリカ研究所主催「メキシコの征服者コルテス像の再考」と題するオンライン講座が行われ、私も『コルテス報告書簡』の訳者として招かれ添付のような発表を行いました。

「コルテス報告書簡」(カルロス一世国王あて)を全訳して    

     2021年3月27日

この講座にお招き頂き有難うございます。私は歴史の専門家ではありませんが、「コルテス報告書簡」を全訳した立場から、その経緯や個人的印象等を含め話させて頂きます。

先ず、なぜ「コルテス報告書簡」を翻訳することになったのか。外務省での私の最初の外国勤務はメキシコでした。4年半の在勤中、たまたま書店で「コルテスの報告書簡」を見つけ読み始めましたところ、まさに歴史というより騎士道物語さながらの面白さに興奮しました。 互いに全く未知の二つの世界、二つの文化の衝突です。そしていつの日かこの「報告書簡」を日本語に訳してみたいとの思いを抱くようになりました。帰国後、東大の増田義郎先生にお会いする機会があり、そのことを話しますと、「岩波書店で大航海時代叢書を発刊する計画がある、そこに入れられるかどうか検討したい、いずれにしてもすぐに翻訳に取り掛かるように」とのことでした。東京では都心から遠く離れた公務員宿舎に住み、通勤に時間がかかり、仕事も忙しく、コルテスの翻訳には週末を利用する外ありませんでした。通勤電車の中で坐れたときはその時間も活用しました。本省勤務が終わる頃、やっと第二書簡を訳了し、増田先生にお届けしました。先生から『征服者と新世界』の巻にこれを入れることとしたいが、征服者の巻に他のどの資料を入れるのがふさわしいと思うかとのご下問がありましたので、いくつかをご提案するとともに、コルテスも第二書簡のみでは片手落ちなので是非第三書簡も入れるべきこと、但し私自身はもう懲り懲りなので、第3書簡はどなたか他の適当な方にお願いしてほしいと申し上げました。先生は訳者が途中で変わるのはよろしくない、是非第三書簡もやるようにと仰いました。次の任地はコルテスのいたエスパニョラ島、即ちドミニカ共和国でした。ここでは仕事もそう忙しくなく、第三書簡は比較的スムーズに終えることができました。そして大航海時代叢書の中の『征服者と新世界』の巻が1980年に刊行されました。その後、「コルテス報告書簡」は確かに第二、第三書簡が中心的な存在ではあるが、征服事業の全貌を知るには第一、第四、第五を含めた全書簡を訳す必要があるのではないかとの思いが強くなりました。そこで2004年、外務省退官後、それに挑戦しました。そして2015年、遂に法政大学出版局から五つの報告書簡の全訳が刊行された次第です。

ラス・カサスはスペイン人の勝因を「神に次いで馬」と記していますが、馬や武器だけでは説明しきれないなにかがあるように思われます。アステカ社会は宗教色のきわめて濃い神権政治の軍事国家でしたから、スペイン人の到来はアステカの支配下で呻吟していた他の部族にとっては解放される絶好のチャンスでした。スペイン人によるメキシコ征服はスペイン人が軍事的、技術的に優勢であったことのみならず、コルテスが先住民族の間に存在する勢力図や敵対関係をいち早く察知し、それを巧みに利用する優れた政治家であったことによるところが大きいと言えます。しかしそれだけでも征服は達成できなかったかも知れません。先住民族の敗退の大きな要因の一つは彼ら、特にモクテスマ王の抱いていた終末論的世界観にあったとも言えるでしょう。モクテスマは「一の葦」の年(即ち1519年)に現れた白人たちは、かつてメキシコを追われ、またいつか戻ってくるという予言を残して東の海に去って行ったという白い肌をしたケツァルコアトルの神の再来ではないかと考えました。従って、はじめから一種の敗北感にとらわれ、心理的にすくんでしまっていたようです。アステカ人は52年に一度廻ってくる暦の周期を重視していましたが、モクテスマはスペイン人の到来を、少なくとも初めのうちは、外敵による危険というより、むしろ一つの周期の終りと次の周期の始まりと解釈していたようです。そしてモクテスマはコルテスとの最初の面会で、「自分たちは元来この土地の者ではない、いつか太陽の昇る方角からこのくにを治める者がやってくるという祖先からの言い伝えがある」と述べたので、コルテスは国王に「彼らは、最初から、陛下を自分たちの本来の王および主君であると認めているかのようでございます」と報告しています。このエピソード、すなわちモクテスマが予言に従い自らの帝国を譲渡したことをもって、コルテスはスペイン人による領有権の主張を正当化し得る一つの根拠と考えたようです。オクタビオ・パスは、メキシコ征服は種々の要因がからむ歴史的事実ではあるが、要するにアステカ人による自殺行為の面があったのではないか、と述べています。

コルテスのテノチティトラン入城は少なくとも表面的には平和的に行われました。彼はモクテスマに“招待され”、受け入れられたのです。彼の唯一の戦闘行為は独立した都市トラスカラを相手に行なったもので、チョルラの大虐殺については、コルテスはスペイン人襲撃の陰謀が発覚したのでその反逆行為に対する自衛手段として行なったものだと述べています。

また、アステカ人の戦闘目的が、戦いに勝つだけではなく、神に捧げる人身御供として敵を生け捕りにするという戦い方も影響したのではないでしょうか。なお、コルテスは、敵のインディオと戦うことよりも、むしろ味方のインディオによる殺りくや、残虐行為を止めさせるのに骨が折れた、と報告しており、首都の包囲はスペイン人1千人と味方のインディオ5万人によって行なわれたとしています。

ところで、その頃のスペインを見ますと、メキシコ征服は国王カルロス一世、即ち神聖ローマ皇帝カール五世の治世下でした。皇帝は対外的には仏、トルコとの戦いに、国内的には宗教改革・反ハプスブルグ的なプロテスタント諸侯との争いに費やし、遠い新大陸の征服に対する関心は意外に薄かったと言えるでしょう。従って、コロンブスの少なくとも第一回・二回航海はスペイン王室の事業として行なわれましたが、そのあとに続くアメリカ大陸の征服は国家の事業として企画されたものではなく、「征服者」の個人的事業として行なわれました。王室は彼らの事業に一銭も出資せず、彼らは自らの資産をなげうって兵を集め、船や武器を調達して探検を実行したのです。征服者たちはその見返りとして先住民労働力の割り当てを受けました。王室は征服の費用は出さなかったのですが、征服が成功すると、略奪品の「五分の一税」を要求し、さらに最終的には征服の成果を取り上げ、役人を送りこんで、行政組織の編成に力を注がせました。

また、当然のことながら征服事業は事前に結果を見通せません。従って、「征服者」たちはその場で戦略や利害に基づき臨機応変に物ごとを決定し、スペイン王室はそれらの決定を既成事実として事後的に認めざるを得ないのは当然です。

コルテスはExtremadura地方出身の下級貴族の子で、14歳の時、サラマンカの親戚の家に預けられ、2~3年間ラテン語と法律の初歩を学んでいます。その後、当時宮廷が置かれていたバリャドリードの公証人のところで一年間見習いをし、またエスパニョラ島に渡った後もアスアの町で公証人をしている。これらの場所で覚えた法律の知識はやがて時間の多くを費やすことになる報告書、嘆願書、法令などの起草に大いに役立ったと思われます。数年間、コルテスはデイエゴ・ベラスケスのもとで平凡な書記の仕事に従事していましたが、1511年、ベラスケスに従って隣のキューバ島に渡りその征服に参加します。キューバ総督に任命されたベラスケスはコルテスを秘書兼財務官に取り立てました。コルテスはベラスケス総督からエルナンデス・デ・コルドバ及びフアン・デ・グリハルバに続く第3回目の遠征隊隊長に任命されます。コルテスが総督から受けた命令は、新しい土地を征服・植民するということではありませんでした。しかし彼はベラスケスとの約束を破り、この地の征服と植民に踏みきることにしたのです。それは国王の名において出された総督の命令に背く行為であり、悪くすると反逆者として処刑されるかも知れず、コルテスにとっては国王に直接訴えて自らの行為を正当化するほかに道はなかった。従って、報告書簡のなによりの目的は総督の命に反して行なわれた彼の征服活動の正当性を国王に訴えて承認を得ること。当時のスペインでは勅令や法令がごく細目まで規定されるため、遠く離れた新大陸において文字どおりに適用するのは現実的でないことがしばしばあり、王令、法令は「尊重するが遵守しない」という悪弊が一般化していました。そのような環境のもとでコルテスは総督の命に背かざるを得ないのはひとえに国王に忠実な臣下として王室の利益を考えるからである、との立場で国王の説得に努めています。

コルテスは基本的には政治家、たまたま軍人でもあったと言えるでしょう。コルテスは「君主論」を読んではいないと思いますが、彼は一方で中世的な世界にいながら、他方で政治は宗教・道徳から切り離して考えるべきであるというマキアヴェリの現実主義を実践していました。

そしてコルテスの政治的理念の根底には次の四つの要素が作用していたのではないでしょうか。

一つは彼がExtremadura出身者であること。Extremaduraでは長期間にわたったイスラムとの聖戦が未だ尾を引き、国境の住民に特有の十字軍の観念が残っていました。農民も平民も騎士と同じく、一朝事が起これば仕事を捨て、いつでも武器をとる用意をしておく必要があった。

二つ目はサラマンカは16世紀のスペインの政治思想形成の場であったということ。たとえ短期間とはいえそこで住み、学んだことは彼に少なからざる影響を与えたものと思われます。

三つ目はエスパニョラ島およびキューバ島での生活を通じて学んだ教訓。コルテスは報告書簡の中で島々の先住民とヌエバ・エスパニャの先住民の政治的前提が基本的に異なること、島々の先住民を絶滅させてしまったという過ちをこの地で繰り返すべきでないことを力説しています。また先住民の協力者、通訳を得て、彼らの心のうちを読み取ることができました。彼はヌエバ・エスパニャはスペイン人と先住民からなる新しい社会であり、先住民の権利を擁護しなければならないという認識を抱き、征服者から植民者に転向、つまり新しい土地に同化しようとしていたようです。

最後の四つ目の要因は明らかにメキシコの現実そのものが彼に与えた影響です。コルテスはメシカの首都テノチティトランを目にし、その高度な政治、社会組織に驚嘆しています。それが彼をしてこの地に先住民とスペイン人を統合した一つの社会をつくり、この地をスペイン国王が支配する帝国の一角に組み込みたいとの思いをさらに募らせることになったと思われます。コルテスにとって征服は一つの手段であり、彼の目的は一つの国、彼の新しい祖国を創設することでした。と同時に中世の人であるコルテスにとって征服は先住民をキリスト教に教え導くための手段でもあり、彼はそのために神の手足となっているという意識をもっていました。

征服した土地にスペイン人を定着させること及び征服地を拡大することに意を用い、具体的にはスペイン人を少なくとも八年以上定住させるための方策として世襲のレパルティミエント制(つまり、先住民労働力のスペイン人への割り当て)の実施、婚姻の義務化、各町に二人の町長、四人の町会議員および一人の弁護士をおくこと、道徳や宗教的義務の規定、Extremaduraの制度に倣ったとみられる植民者に対するある種の兵役義務、先住民の待遇や労働条件に関する規定などにみられます。

メキシコ征服後コルテスは二度スペインに戻っています。一回目は1528年から2年近く、まだ勝利の栄光に輝いていました。国王は彼にオアハカ侯爵という爵位を与え、総司令官の職に留めることを確認しました。もっとも実権はすべて王室の高官に奪い取られ、彼自身は完全に植民地政治の埒外に追いやられ、失意のうちに10年を過ごします。

しかしコルテスの気力は衰えず、この間4回にわたり「南の海」(即ち太平洋)に探検隊を派遣し、第3回目の「コルテスの海」、すなわち「カリフォルニア湾」の探査は自ら隊長を務めています。コルテスは大西洋と太平洋を結ぶ海峡を発見すること、およびパナマやペルーとの通商にも意欲的でした。

しかし1540年の春、コルテスは幻滅と失意のうちに、多くの訴訟案件を抱えて、再びスペインに戻ります。インディアス枢機会議は彼を丁重に、しかしいとも冷やかに迎える。彼はすでに過去の人であり、国王との面会も果たせず、Sevilla近郊のCastilleja de la Cuestaにおいて永眠します。62歳でした。コルテスは「征服された征服者」といわれるようにメキシコの土への愛着を捨てきれず、自分の遺骨は適当であると判断される間、教区の教会に保管した後ヌエバ・エスパーニャに埋葬してほしい、それは遅くとも10年以内が望ましい、との遺言を残していました。彼の遺骨はあちこち遍歴の末、現在メキシコ市のJesús Nazareno教会に納められています。(了)

マリア・コダマ女史からのメール

旧知のマリア・コダマ女史(日系二世)から先日以下のメールが届きました。 この方はアルゼンチンの文豪ホルヘ・ルイス・ボルヘスの未亡人で、作家の没後「ホルヘ・ルイス・ボルヘス国際財団」を立ち上げ、世界に向けてのボルヘスの紹介やアルゼンチン における俳句の普及などを行っておられます。同メールを皆さんと共有したいと思います。


     
ホルヘ・ルイス・ボルヘス国際財団 理事長 マリア・コダマ女史の寄稿文 (日本語訳)

伊藤さん:

 コロナ禍のただ中にあるブエノスアイレスからお便りしています。今や当地でも皆マスクをつけていますが、私はこれを barbijo (動物の口輪)と呼んでいます。

 ホルヘ・ルイス・ボルヘス国際財団は、その後もコロナウイルスにもめげず、活動を続けています。

 まず財団では日本大使館とオラシオ・マルコ氏の献身的な支援を得て、日本映画も上映しており、日本映画のファンが増えています。

 また、フェルナンド・フローレス副理事長が中心となって財団による俳句コンクールも続けています。それに加えて新しい試みもあります。コロナ禍が落ち着きしだい、従来の青少年向け俳句コンクールを継続するだけではなく、新たに小学生部門も設け、ネットを通じてボルヘスの作品の読み方を教える講習会を開くことになっています。そこではボルヘスが日本に対して抱いていた親愛の情も示されるのはもちろんのこと、著名な評論家や作家の参加も予定しています。この講習会にはすでに400名以上の参加申し込みがありました。

 また、フェルナンド・フローレス氏の発案により、ボルヘスの『幻獣辞典』をイラスト付きで読めるようにしました。SNSで見ることができますのでどうぞご覧下さい( www.seresfantasticos.com )。

 なお中国から、俳句コンクールに参加したアルゼンチンの青少年の俳句を中国語に訳したいとの話が舞い込んでいます。自分としてはできればそれを日本語に訳し、日本の新聞なり雑誌の文学欄に発表できれば面白いのではないかと思っています。

あなたの日本の古典の翻訳は素晴らしいお仕事で、心からお祝い申し上げたいと思います。

                                     マリア・コダマ

機中で見たスペイン映画

3月中頃、スペインでもコロナウイルスが猛威を振るい始めたため、マドリード・成田直行便(イベリア・JAL共同運航)で急遽帰国しました。不幸中の幸いは機内で3本のスペイン映画を楽しめたことでした。

1本目はスペインの名匠ペドロ・アルモドバル監督・脚本、アントニオ・バンデラス主演による”Dolor y gloria”。 アルモドバルの自伝的要素を織り交ぜつつ描いた人間ドラマ。世界的な映画監督サルバドールは、脊椎の痛みから生きがいを見いだせなくなり、心身ともに疲れ果てていた。引退同然の生活を送る彼は、幼少時代と母親、その頃に移り住んだバレンシアの村での出来事、マドリッドでの恋と破局など、自身の過去を回想するように。そんな彼のもとに、32年前に手がけた作品の上映依頼が届く。思わぬ再会が、心を閉ざしていたサルバドールを過去へと翻らせていく。幼少時の母親役のペネロペ・クルスが美しい。

2本目は ”Vivir dos veces” という題名のコメディ。 アルツハイマーと診断されたもと数学者の老人が、孫とともに初恋の彼女を捜す旅に出る。途中から娘、娘婿も加わり、ばらばらだった家族の絆が深まる。記憶が消えてしまう前に、変わらぬ愛を伝えるためだったのだが、やっと見つけた彼女は、、、

3本目は ”Mientras dure la guerra”。1936年後半のサラマンカが舞台。スペイン内戦中のウナムノ(哲学者・サラマンカ大学学長)を主人公にしたもので、第二共和国から国を救うためには軍事クーデターも已むなしとこれを容認する立場をとったが、結局それがフランコ独裁政権の誕生につながったことに気づき、後悔するといった内容です。

いずれの3本もそれぞれ見応えがあり、その感慨に耽っていると、「間もなく成田空港到着です」の機内アナウンスが聞こえてきました。

バルガス・リョサの最新作 Tiempos recios(「激動の時代」)
バルガス・リョサ Tiempos recios

 新型コロナウィルスのお陰ですべての約束がキャンセルされたのをこれ幸いとバルガス・リョサの最新作 Tiempos recios(「激動の時代」)を読みました。中米のグアテマラを中心にカリブ海のドミニカ共和国などを舞台にした歴史小説です。

 グアテマラでは1950年の大統領選挙において軍人・政治家出身で国防大臣も務めたハコボ・アルベンス(1913-1971)が選出されました。アルベンスはグアテマラのこれまでの半植民地的経済を自立させ、民主的で近代的な国家に変革しようとの野望を抱いて翌年大統領に就任しました。しかしその革新的政策は、特に農地改革をめぐり米国から猛反発を受けます。米国は「グアテマラが共産化している、ソ連の橋頭保を築こうとしている」というネガティブキャンペーンを張って露骨な内政干渉を行いました。そして同改革がユナイテッド・フルーツの権益にまで及ぶと、米国の怒りは頂点に達したのです。

 1954年、米国・CIAの支援を得たカスティーリョ・アルマス大佐率いる武装勢力がクーデターを起こします。アルベンス政権は崩壊、アルベンスはメキシコへ亡命しました。この一連の動きにはドミニカ共和国の独裁者トルヒーリョも深く係わっていたようです。トルヒーリョは残酷な拷問で知られた軍情報局(SIM)のアッベス・ガルシア局長(1924-1967)を駐グアテマラ大使館に武官として派遣。当初トルヒーリョは新たに成立したグアテマラのカスティーリョ・アルマス軍事独裁政権を支援しましたが、その後徐々に両者の関係が悪化、1957年に起ったカスティーリョ・アルマス(1914-1957)暗殺事件にはトルヒーリョが関与していたとされます。その後、トルヒーリョ自身、1961年、米CIAに支援された側近によって暗殺されるのですが。

 トルヒーリョのあとを継いだバラゲール大統領は軍情報局(SIM)を解体するため、即刻アッベス・ガルシアを “地球上でもっとも遠い” とされた日本に大使館武官として派遣します。このアッベス・ガルシアもその後数奇な運命をたどることとなります。

 バラゲール大統領(1906-2002)といえば、私が駐ドミニカ共和国大使館で勤務した1973-78当時も大統領を務めており、なんどか直接お会いする機会がありました。強権政治ではありましたが米国からの援助で工業化を進め、「ドミニカの奇蹟」と呼ばれる経済成長を実現しました。握手の手は実に弱々しく、話す声も小さかったのですが、演説のときは人が変わり、その声は実に力強いものでした。晩年は白内障でほとんど視力はなかったそうですが、国会での年次教書などは朗々と読み上げ、あれはすべて記憶に頼っているのだといわれていました。とにかく沈着冷静、頭脳明晰で、謎めいた方でした。

 バルガス・リョサの Tiempos recios (「激動の時代」)を読むと、当時の米国外交の稚拙さ、強引さに改めて驚かされます。そしてキューバのフィデル・カストロを共産圏に追いやったのもむべなるかなという気がします。

サラマンカ大学での短期集中講義

 この度スペインのサラマンカ大学において「古典文学に見られる日本社会の変遷」というテーマで講義をすることとなり、3月4日に日本を出発しました。これまで奈良時代の『万葉集』、平安時代の『梁塵秘抄』、鎌倉時代の『方丈記』、『百人一首』および『歎異抄』、室町時代の『閑吟集』、江戸時代の『世間胸算用』、『芭蕉文集』および『おくのほそ道』、そして明治時代の石川啄木(『一握の砂』、『悲しき玩具』、『ローマ字日記』)をスペイン語に訳してきましたので、これらの作品を紹介しつつその時代背景や日本社会の変遷について考察しようというものでした。

フローレス・サラマンカ大学日西文化センター所長による講師紹介

 3月4日マドリード着、4日間滞在してから、新幹線でサラマンカへ入りました。大学での短期集中講義は9日から12日までの4日間(各2時間半、4回)でした。しかしその頃、スペインでのコロナウイルスの感染者数は日ごとに倍増していて、学生たちも浮足立っており、結局、講義は3回行っただけで、最終回は中止となりました。その他に同大学およびマドリードのコンプルテンセ大学でも講演をする予定でしたが、教育機関が閉鎖されいずれも中止となりました。当初はサラマンカでの講義と講演を終え次第レンタカーで地方を廻る予定でしたが、すべてキャンセルしました。幸い14日のJAL・イベリア共同運航のマドリード・成田直行便に変更ができ、これで帰ってきました。3月17日現在のスペイン全土の感染者数累計は11,178人、死亡者数は491人に上ります。ちょうどギリギリのタイミングで帰国できた気がします。しかし肝心の仕事の方は達成感が湧かず、残念さが残ります。

Salamanca の宿舎フォンセカ大司教迎賓館

 もっとも、サラマンカ大学のフォンセカ大司教迎賓館に5泊させて頂いたこと、私の「歎異抄」スペイン語訳を出版して下さったSigueme社(在サラマンカ)のエドゥアルド・アユソ代表から昼食に招かれ、いろいろと話し合えたこと、またサラマンカ大学日西文化センターのホセ・アベル・フローレス所長とも昼食を共にしながら日本とスペインの文化交流について意見交換ができたのはとても有益でした。

 さらに40年近く前にマドリードの大学寮で3食を共にしたパコ(弁護士)がバダホスから夫妻で駆けつけてくれ、「万が一飛行機が飛ばず、スペインに永く滞在しなければならなくなったら是非自分の家へ来るように」と誘ってくれたのも有難く、忘れ難いです。

 なお余談ですが、街を歩きながら印象深かったのは人々が親切だということと、歩行者がいると必ず止まるというスペイン人の運転マナーの良さです。日本も大いに学ぶべきだと思いました。

 ☘ スペイン滞在中の写真集は こちら

       パコ一家と

啄木一族の墓

昨年(2019)のクリスマス・イブに雪の函館を訪れました。津軽海峡に面した立待岬(たちまちみさき)近くに、啄木と妻をはじめ3人の愛児や両親らの眠る墓があります。

啄木が函館に住んだのは明治40年(1907)5月から9月までの短い期間でした。しかし、そこでの生活は離散していた家族を呼び寄せ、明るく楽しいものだったようです。そして「死ぬときは函館で……」と言わせたほど函館の人と風物を愛していました。

墓碑には

東海の小島の磯の白砂に
われ泣きぬれて蟹とたはむる

の一首が刻まれており、そこからこの歌の舞台とされる大森浜が一望できます。

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